文章世界

日々延々ずるずるのマンネリエッセイ 元ひぐらしのブログ

大切なことを学ぶ

 夕方、我が家へ一番乗りしたのはお父さん。さて今日の晩御飯は何にするべ。

 さっそく冷蔵庫を開けてみると、棚にココナッツミルクの缶詰がのっている。これは先週から二度ばかりスープに用いたもので、まだ内容物の半分以上は残っていた。ならばもう献立は決定ですね。では、

【本日の晩御飯】
・ココナッツカレー
エスニック風春雨炒め

 なんだかこれだけでは貧相な感じがしなくもないが、週のはじめからご馳走を飽食ではどうもこうもなるまい。

 ココナッツカレーは、これまで作ったことがないけれど、普段よく作るココナッツミルクスープにカレー風味を加えたものと考えればよかろう。メインデッシュ的ではなく、あくまでも一汁一菜の”一汁”である。

 それで、具の豚肉、人参、玉葱、蝦、椎茸などを下ごしらえした鍋に、缶に残ったココナッツミルクを全部投入、ブイヨンの素も加えてぐつぐつ煮込む。そのあいだに、春雨を戻し、オクラと蒲鉾とシメジを、若干エスニックな風味に炒めたものとかめらて一菜の方も完成。さあ、あとはインスタントカレーのルーを、あくまでもスープ風だから、二ブロックだけ投入して、味見。
 むむむ、これって、いつも食べているただのカレーじゃん。
 やはりカレーはカレーで、その強烈な風味は、ココナッツだろうがなんだろうが、すべてをすっかりカレー化してしまったわけである。

 むむむ、こりゃあかん。カレーのルーは、ほんのサイコロほどで十分だったんだ。たぶん。それか、SBカレーの素をほんのひと匙とか。

 その様子を見ながら鍋をのぞき込んだ娘は「父がまたひとつ学んだようだね」と云った。
 まったく大切なことだと思う。

 


願はくは花のもとにて

 鎌倉に住んでいたころ、歩いていける近所に源氏山公園と云うところがあって、そこはとても素敵な場所だったから、暇さえあれば足をはこび、散策を楽しんだものだった。
 おそらく源氏山は、全国的にも有名だと思うのだけれど、なにしろ桜の名所である。
 ちょうどいまごろの時期、凄まじく多量に舞う花吹雪に打たれながら桜のトンネルを歩いていると、西行法師ではないが、どこか狂おしいような気持ちさえしたことを懐かしく思い出す。
 その場所を借りて、まだ新婚と云ってもよい夫婦二人は、ささやかな宴を幾度か設けた。翌年にはそこに新たな家族も加わった。お弁当は二人の手作り、お酒は麦酒がほんの少し。緋毛氈と云う風雅はないが、それでも地元民の特権でとっておきの一等地に小さなビニルの敷物を陣取り、心行くまで花を愛でたものだった。

「願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃」
 上にも登場いただいた西行法師である。法師が桜をこよなく愛したことは万人の知るところであるが、その一端はこの歌からもよくうかがえよう。
 不思議なことに、これを詠んでから十数年後、法師は、”願わくは”のとおりに、如月の望月(2月15日を云う、新暦では3月)の翌日、その波乱に満ちた生涯を閉じたのである。じっさい臨終が花の下でだったかは不明なれど、70年の生涯に桜の歌を230首も詠んだ法師は、狂おしいほどに愛した桜を存分に愛でながら天に昇っていかれたに違いない。

 鎌倉での任期は2年で切れたから、源氏山の桜も2期限りになったのだけれど、思うにその時期の桜は、これまでの生涯でもっとも素晴らしい姿を我が胸にも刻みつけたのだった。何故と云ってやはりそのころが人生でもっとも希望に充ちた素晴らしい時期だったから。
 願わくば、またあのころのような心に戻って、凄まじく多量に舞う花吹雪に打たれながら桜のトンネルを歩いてみたい。さらに願わくば、卯月はじめのほどよい日にちに、花のもとで生涯を閉じられたなら。

 


昔の人は偉かった

 先日、職場の某さんからいただいた雑誌「文藝春秋」を、毎朝始業の前30分くらいを使って、ちくちくと読み進めるのが、このところ小生のトレンドなのである。
 それで、昨日から<特集「坂の上の雲」今こそ読み返す>の章に入って、じつを云うと小生は、どうしたものか司馬遼太郎さんをこれまで一冊すら読んだことがなく(いや、一冊くらいはあったかしら)、当然、件の大作も存在は知っているけれども、と云った具合。さらにはそれがNHKのスペシャルドラマとして三年間に渡り放送されたことも知らず存ぜぬの次第、ただ「へえ、だけどそれって面白そうやねえ、今度読んでみようっと」

 まっ、それはべつにして、件の特集が面白かったのは、参謀の特集でもあったこと。何故と云って、小生はリーダーではなく参謀タイプの人だから。特に「坂の上の雲」は、日露戦争あたりを時代背景に書かれた小説なので、明治期に活躍した日本の歴史上でも屈指の参謀たちが続々登場してくるらしい。そんな参謀たちをめぐっての対談集は、そりゃ面白いに決まっておるわ。

 まっ、それもべつにして、参謀の偉かったのはおそらく明治、大正のころまでで、たとえば太平洋戦争では、幾多の将とその参謀が力を尽くして戦ったのではあるけれど、如何せん、将はまだしも参謀があまりに偉くなかった例が非常に多く目立ってくる。で、当然ながら終戦後~現代となればもう……

 上で明治期ころの参謀は大変に偉かったとのべたが、あの時代はなにも参謀に限らず、軍人、政治家、実業家、etc、とにかく色々な分野のトップにある人物は、現代とは比べ物にならないほど桁違いに偉かったのである。それは、あのころの著名人物(たとえば伊藤博文でも良いけれど)を、片っ端からぞろぞろ思い浮かべ列挙していけば、すぐに納得できよう。ちなみに現代の著名人物(たとえば某総理大臣でも良いけれど)を、片っ端からぞろぞろ思い浮かべ列挙していけば、逆の意味からそのことがすぐに納得できる。

 なぜそうだったかと云うのは、要素が多岐に渡りとてもひと言ではのべられないけれど、雑駁にひと言で云ってしまえば「時代がそうだったから」でも十分だろう。
 これはしかし云いかたを変えて「現代日本に偉い人が出現する可能性は皆無である」とか、逆説的に「未来の日本には再び偉い人が出てくる可能性もなくはない」でも同じことである。
 そもそも人間の頭脳と云うものは、少なくとも1万年前と現在くらいでは、ほとんど生理的な差異はなく、しかもそれは全人類が概ね一定の範囲内にあり、まあ時折りは突然変異的に超人的頭脳を有する固体が現れたりはするものの、明治初期ころの東亜細亜地域に突如高度な頭脳をもつ集団が発生などは普通有り得ない。同様に明治初期ころにはたくさんの偉い人物が出現したけれど、それが、高々百年やそこらで全滅し以って現代日本は阿呆ばかりになった、と云うことも当然あるはずがない。

 話しの方向がずれたけれど、とにかく明治時代に日本を動かす立場にあった人々は恐ろしく偉かったのであって、そのような人々について研究することは、現代にも後世にとっても極めて意義のあることだと思う。

 そんなところで、まずは「坂の上の雲司馬遼太郎著(文春文庫)を今こそ読み返す、いや、新たに読み始めてみるとするか。

 

<補遺 あれから15年後>

坂の上の雲司馬遼太郎著(文春文庫、かな?)は、今もって読めず。

 何故って? 忙しいからですね。

 ほんとうかな?

  

(2025年5月記)


四季

 季節の移ろいと云うことで思ったのだけれども、日本には明確な四季がある、諸外国のことは知らないが、まあ、四季はあったりなかったりするのかしらん、例え常夏の島と雖も年から年中同じ気候ではあるまいし、南極にも夏は来るそうだ。それならばやはりすべての人類は太古の昔から、季節の移ろいの中に暮らしを立ててきたはずで、もやはそれなくして生きることなどかなわぬ先の夢、と云えるのではあるまいかと。

 それで、話しを飛躍させると、遥かな未来、人類がもしも上手い具合に存続していたとして、彼らはきっと大宇宙に旅立つ日を迎えるだろう。それは現在の宇宙開発のような学術研究のためではなく、人類の新たな営みに向けた旅立ち。

 彼らはそこに集落をこさえ町をつくり国を建てる。母なる地球を遠く離れた未知の暮らしの始まりである。

 おそらくその地には、彼らをやさしく包む大気もなく、水もない。日夜激しい灼熱と厳しい冷気が繰り返し襲う荒涼とした世界。彼らはそこに国ごとすっぽり覆う巨大で強固な建造物をおっ建て、人工太陽を照らし、人工大気を充填、人工海水を充たす。その巨大ハウス内で暮らす限り、彼らは母なる地球と同じ環境のもと安穏たる生活を送ることができると云う寸法だ。

 その時。

 彼らのひとりが嘆息とともにこう云う。

 ここは快適だ。寒くもないし暑くもない。雨も降らなければ風もない。かつて我らを脅かせた台風や吹雪や豪雨、炎天下で流れる汗をぬぐい、厳冬に指先を赤く凍えさせ、突然の雨に逃げ惑い、そう云ったこともなにもない。春の芽吹き、夏草の匂い、枯れ葉を踏みしめ、霜を折って歩いたあの懐かしい日々。なにもかもここにはないじゃないか。

 そうだ。季節だよ、季節。ここに足りないのは季節なんだよ、コノヤロウ。快適なんかクソ食らえ。「雨にも負けず風にも負けず雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだをもち慾はなく決して怒らずいつも静かに笑っている一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べればそれで良いんだ! バカヤロウ。

 それから、ややあって、彼らのコロニーに四季が巡ってくるようになった。

「日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き」

「そういうものにわたしはなりたい」

 母なる地球を離れたものたちは、口々にそんなことを云いあい頷きあった。コレデイイノダ、みんなそう思っていた。

 まっ、そんな風なお話しだな。

 


それいけシルヴァー号

 此度より平地に住まうことになったから、この際とばかり思いきって自転車を購入することにした。これまでも息子の使っていたのがあるにはあったのだが、それは子ども用自転車なのである。

 先日ちょっとしたお買い物があったので、仕方なくその一件に跨り、国道2号線方面を走った。すると後日、会社の同僚から指摘を受けた。

「汝、某日某時分頃某所ヲ疾駆セラルヲ見タリ。然ルニ跨リシ車両ノ過分ニ小サキ有様ニテハ真ニ醜キコト甚ダシ」

 見られてしまった! 同僚は、走る車の窓からぼくを発見したのだろう。

 まあ、外観など気にする年齢ではないから、同僚の指摘に耳を傾けるつもりは毛頭ないのだけれど、なにしろ子ども用の自転車は大変に乗り難いのである。

 それにぼくは良いとしても、奥さんの方は大変だ。妙齢のご婦人が、男児用のスポーツ自転車で疾駆する図というのは、やはりあまり格好がよろしいものではない。それは我が奥方がもっとも嫌う図であって、彼女はいかなる火急の事態が発生しようと件の車両には決して跨らず、御自らの健脚を駆使の上、事態を解決するに至るものであろうと想像する。

 さて、そういうわけで、新たに届いた自転車は、各部の銀色もまぶしい26インチのスーパーままちゃりである。

 ぼくは、これを「シルヴァー号」と命名した。

 いうまでもない、S・キングの未曾有の大作「It」の中で、主人公のビル・デンブロウの危機を幾度も救うこととなる、あの銀色のモンスターサイクルと同じ愛称だ。

 ぼくはそれを駆り、掛け声も勇ましく各方面を疾風のように疾走する。

 ハイヨー! それいけシルヴァー!!

 また件の同僚から指摘を受けそうである。

 


陸でなし

 どうやら子どものころ優等生で今は陸でなしと云う風な人物に限って、自分がかつて子どもだったころのあれこれを皆目覚えていないような節があるらしい。

 おそらくこれは、彼らが大人になるにつれ、自分のもっていた大切なものを片っ端から捨ててしまった結果に他なるまいし、失ったものがいったい何であったかすら分からないほど愚鈍であるが故に、やはり当然のごとく陸でもない人物になり下がっているのだなとも考える。

 その点ぼくなどは、元来が陸でなしで今もそうなのだから、それほど失うものもなくて呑気なものである。いや、けれどほんの少し思うのは、子どものころ陸でもなかったぼくは、他の優等生諸君らに比べ、ずいぶんと沢山の大切を心にもっていたのではなかったかしらん_と。

 優等の諸君らが大人しく勉学に精を出し、大人しく親御さんや先生の御云いつけを守り、大人しく安全優雅なる遊びに興じておるあいだ、ぼくら陸でなし同盟のガキどもは恐ろしく膨大な大切を学んでおった。

 夢、希望、自由、想像、未来、世界、自然、動物、植物、イノチ、宇宙、時間、生きること、死ぬこと、喜び、悲しみ、怒り、寂しさ、つらさ、勇気、友情、愛情、お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、妹、弟、友だち、知らない人、知っている人、やさしさ、怖さ、美しさ、醜さ、読むこと、書くこと、闘うこと、我慢すること、話し合うこと、分かり合うこと……

 これら学んだ数々を、もしや今はほんの少し失ってしまったかもしれないこれら大切の数々を、しかしぼくは今もけっして忘れているわけではないのだ。かつて少年であった自分、陸でもなかったその自分だけれど、いかに果てしなくゆたかで深い心を有していたかをぼくは今更のように思い起こしている。

 そう、子どもと云うのはまったくもってすごいやつらだ。ほんとうは優等生も劣等性もない、みんな誰だってとんでもなくすごいやつ。覚えていないのか?

 そやつらの心の中から、色々の大切で美しく素敵なことどもをひとつひとつ丁寧に叩き潰し、萎ませ、腐らせていくと何が出来上がると思う? それは反吐の出そうなほど下らない「大人」と云う最低の物体。良く知っているよね。

 そしてその潰したり腐らせたりの仕事をするのがやはり「大人」と云う陸でなしだ。更にその中でもっとも腐り爛れ恐ろしく有害な毒を撒き散らすやつらと云うのが、自らの腐っていることも知らぬ存ぜぬままに、子どもを己よりも劣った存在と見下す、冒頭にも例示したような愚鈍の連中である。

 まったくもってぼくは、そう云う腐りきった陸でもない連中が、さも判り切った風な顔をして、子どものことを考えている風な顔をして、社会の行く末を心配する風な顔をして、じつは大切な子どもらの素晴らしい芽のすべてを摘み取り踏み潰していく有り様をどうしたって我慢することができない。そのような輩の横行をぼくは心底憂えてやまない。

 もうこの際だから正直に云っておこう。ぼくは陸でなしなどでは決してない。なにも忘れたわけではないのだから。少なくとも今のところは。それでぼくは、ただの大馬鹿者である。別に特段の害はないと思う。

 

おわり